夢でも描こうのブログ

みんなに助けてもらいたい非力な僕

未来は明るいが

数多くのフューチャリスト達が預言に近い言葉を残し、遅れるといわれている技術が、早く革新を迎えるといって盛んな未来像を示している中で、何もしないでいる自分はひとり報われない気持ちになっている。 未来は確実に明るいだろう、ただ、その恩恵を受けれるだけ、僕には準備が出来ていない、資本主義の現実で、お金を持っていないことで未来に現れるだろう数多くの技術や生産される物品に触れることが出来ないのだ。それは悲しいことだろうと思うが、誰かが触ってさえいれば、それは自分が体験したようなことに近しくなる時代ゆえに、数多あるブログ記事や個人の日記を拝読することで、その孤独を少しだけ癒やすことも出来る。

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昔に比べても何もかもが便利になってきている。一昔前には出来なかった技術が、しばらくすれば手の届くところまで降りてきてくれるようになっているゆえに、必要なものが生じた時、必要なものをすぐさま受け取れるような未来がくるのは分かりやすい話だ。ただ、何度ものセッションが必要となり、社会の全体が良くなるようにする力は、皆が少しずつ出しあって築き上げたものであるから、今後の未来も明るいものだろう。

ただ、じっとしているだけで、周りが少しずつ景色を変えていくのなら、待つのも悪くないだろう、が、僕はじっとしているのに飽きが来てしまっているようで、毎日を未来を想うことに費やすことが、少しずつ辛くなってきている。

これではいけないとは思うのだが、それでも毎日を未来の技術が発展しているか、誰もが幸福を得ることが出来るかと悩み、成し遂げられた成果をずっと待っている。本当はボロボロの立ち位置に居るにも関わらず、すべての人が報われることが良いことだと待つ、それがとても歯がゆいのだ、未来は明るいだろう、しかし自分は救われないようで、毎日がとても憂鬱な気持ちである。

 

 さて僕も未来にどんなことが起きるか想像してみることにする。

人間は死ななくなる

不死身が叶うと良く言っている人がいるように、本当に人は死ななくなる。 どれだけ高いところから飛び降りても、物理的にどれだけ傷つけられても、血液を失っても、肉体が損壊しているだけで、人間本体は死ななくなる。 人間という物自体がクラウド化して電子と物質界の非常にあいまいなところに留まっているためだ、

ではクラウド化した人間を極限まで破壊していけば死ねるだろうか?
それでも縁と呼ばれる個人の断片が記録され続けているわけであり、簡単に死ぬことは無い、不死なのだ記録がある限り、どこで、何をしたとしても死ぬことが出来ない。
常に記録され、そのDATAが暗号化され破壊されないように秘匿される、何人にも改変できない履歴の塊が、そこかしこに残されて、その人を形作るようになって行く。
そんな未来では不死は喜ばしいことというよりも、義務なのだ。
逆に死んでしまうということが出来た時代を懐かしむくらいにはなる。
不死が義務である世界では、人間をお終いにすることは叶わない、永遠に人間を続けながら、より高度な生命体を目指して発達していかなくてはならないからだ。
そして最も恐ろしいことは、死が記録されるということである。完全に。

今までの死は記録することが出来ず、別個にあるものに過ぎなかったが、人間が電子の海をまたぐ存在となった時、数多くの死を肉体が経験する死という現象を記録することになる。 それは死自体の現象が完全に解明される時であり、その瞬間に何が起きたのかをすべて記録しておければ、死の再現さえ簡単なものになる。
 死が記録可能になった時、死ななくなるといったほうが分かりやすい、瞬時に意志を継ぐことが可能になるからだ、このため、死を記録できるか? が不死の基準ともなる。 死にたくないと願いアンチエイジングに励むことよりも、死んだ瞬間を解明することのほうが、返って死を遠ざける技術の発展につながるわけである。
 そんな想像をすると、不死を実現した未来というのは恐ろしいものだと実感できる。

今まで自然死と呼ばれたりぽっくりいった、と表されていたすべての死が、実は大変な苦痛を乗り越えての死であったとか、脳が破壊される瞬間を何回とリピートして、その瞬間にある自己の崩壊を何度でも味わうことが可能なわけであるから、死を乗り越えた先に待つのは、いままで脆弱な体に収まっていた自分という存在を俯瞰して見ることに相違なく、その視点は確実に人間のそれを超越しているからだ。その視点は、
 すべての生命体に向けられているといっても過言ではなく、人間がネットと融和していけば、ネットと融和していないものの現象さえも予測して判断し、死のシミュレートさえ電子の世界だけで可能になるわけであるから、死自体が刺激の強い娯楽に変換されるような時代であり、死がジョークのように扱われる世界の到来ともいえる。

 そんな未来を想像するとなんとも味わいが足りないような気もして、人間味をどこかで足したくなるものの、もはや人間を超越してしまった後には、人間らしさを取り戻すことは叶わないのであって、そうなってしまえば遠慮が最大源無くなった本能だけの怪物になるようにも思えるのだ。

 故に、今がとても大事であって、なぜ、人間性を保とうとすべての人が必死になっているのかと言えば、未来に起こる人間の進化の時に、人間的であった仕草を残し、その伝統となる継承するべき人間性を担保しておく時間だからだ。 ただそれは乱暴な解釈を伴ってもいる。 倫理的な面は即座に乗り越えてしまうだろう未来を否定する、過去の妄言だと一蹴されもするだろうが、人間が心地よいと感じる以上の限界を越えた発達や発展を望んだ時点で、人間という形を保ってはいけないからである。

 たとえとしては、タイピングするマシーンに人間はなれない、どれだけ頑張っても、必死になってもタイピングだけを完全に学習した機械にはなれないし、機械にはかなわない、人間は肉体を保ったままでは機械には勝てない故に、機械のそれを取り込んで人間をブーストさせるようになる。その時、人間の限界を突破してまで何の幸福を追求するのかが、毎度問われるようになる。その先にあるのは一種の虚しさだろう、到達して得るものが虚しさならばどうして高見を目指していったのかが分からなくもなる。

 そんな時の心の基地となる人間性を担保にしていれば、再び、人間の元に戻り、今までの経験を人間に還元することも可能となるが、あまりにも高見を目指しすぎて突き抜けてしまった技術は、すべての人に還元することは難しいものになる。

 自然自然と起きた変化ではない変化は時として超越と呼ばれるように、今の時点で、言葉が足りていない次世代への変化、変貌は、超をいくつつけても測れない倫理を越えた形への変化であり、そのような変化を望まないものも多くあるだろう。

 それでも見てみたいのだ、人間が死を克服し、死を何万と再現し、死をジョークとして扱えるようになった未来が、たとい自分が嘲笑される側の限られた命を持った人間であったとしても、未来に人は生きるべきであり、未来では倫理の壁を乗り越えていってほしいのである。 貪欲な未来への希望は輝いていて、決して色が衰えることが無い。

願わくば、すべての人に無限の命が与えられんことを。